竜頭蛇尾 または私はなぜスポーツが嫌いか あるいはビヨンセは良い

先ほど書店から帰る道すがら、知り合いのブルースギタリストに会って、少し話した。その時に「今度、あそこのスポーツバーで一杯」と言われ、反射的に「それがねえ、自然とスポーツは嫌いなんですよ」と答えてしまったので、ずいぶんと妙な顔をされた。確かにかなり唐突で、これはそう答える方がムチャである。申し訳ない。

自然(花鳥風月)が嫌いと云うのは横において、スポーツ嫌いというのはスポーツそのものではなく、そこに仮託して熱狂することが嫌いである。スポーツ選手が必ず何かを背負って戦う姿も嫌いである。そういう「嫌い」である。だからひどく主観的な話なので、今回のように「嫌い」と他人様に向って拒絶するような話ではない。最近は少し「思った事を口にしないように」と気をつけているのだが、疲れていたり暑苦しかったりすると、ついそういう良くない言い方をしてしまい、あとでいやぁな気持ちになる。なるけれども言ってしまったものは取り返しがつかないから、次はやめようと心に決める。決めてしばらくはそれで行けるのだけれども、そのうちだんだんガードが低くなり、そうこうするうちについ、ぽろっとやってしまう。これはたぶん死ぬまで治らない、というのは本当は甘えで要は真剣に治そうとしていないのだと思うけれどもそれはまた別の話である。

仮託して熱狂するのが嫌い、というのは、例えばスポーツ選手の戦いぶりに自分を重ねて、自分の想いを託して、心を昂らせることが嫌いなのである。そうすることが怖い。自分がいかに感情コントロールができない人間かは56年も生きてくれば何とかうすぼんやりと分かって来ているので、ここでロックを外してしまったらどうなるか見当がつく。やばいことはできない。そうすればひと皮むけるという悪魔のささやきもあるが、いやいや剥けなくとも結構ですと答える。臆病のママで結構である。

もうひとつ、スポーツ選手が何かを背負って戦う姿を見るのが嫌いだ。これも突き詰めれば「スポーツ選手が●●(国でもチームでも何でもいい)を背負って戦っているな、と想像する自分」がいるわけで、つまり客観的にスポーツ選手が背負っているかどうかは実は関係ない。自分の幻想である。勝手に状況を想定し勝手にそれを嫌っているのだから、これを独り相撲と言う。誰かがウッディ・アレンの短篇を評して「自分自身に向ってシャドウボクシングをやっている」と書いていたが、まさにそれである。

何をごちゃごちゃ書いているんだと叱られそうだが(誰に?)、何だか僕も説明しづらいのでさっさと切り上げる。要は「汗臭いのが嫌い」、でいいかも知れない。皆が同じものを見て熱狂する、スタジアムとかアリーナとかいうスタイルが苦手なのだ。いいじゃん、そんなことしなくたって。まあペプシの宣伝でブリトニー・スピアーズビヨンセとピンクがアリーナで「ロックユー」を歌う奴がありあれは大好きだけれども、それはあまり関係ない。関係ないついでに埋め込みテスト。それにしてもビヨンセはいかにも楽しそうであります。後半はオリジナルのクイーンの曲も入っていて、おトク。

わけ分からなくなったのでおしまい。

「おことば」はからっぽだ

以下、要するに「陛下を民主主義のヒーローに祭り上げようとする心性は僕には納得できない」ということを書きます。

自分でもさんざん「陛下が」「陛下が」と書いておいてナンですが。実は最近の陛下の言動とそれに対する人々のリアクションには、大いに違和感を感じていました。

最初は僕も「何だ天皇陛下がいちばん民主的ではないか」と浮かれていたのですが、ジャパニーズリベラルの方々やその応援団の方々が「さすが陛下」みたいな喜び方をしているのを見て、冷静になりました。

天皇陛下が何を考えてどう行動しているのかは、外からはまったく分かりません。そもそも本当に陛下の真情なのか、宮内庁や政府の創作文章なのかも、分かりません。例えばジャーナリストが直接取材をかける、単独インタビューをするなどという方法は、天皇陛下の言動に関する限り、不可能。つまり、そこに「おことば」があり、その「おことば」の回りでそれぞれが勝手にわーわーやっているに過ぎない。天皇陛下の全言動を検証し直し発言傾向を調べそこから「本当はこの人は何を言いたかったのか」を検証する人でも出てくれば別ですが、そうでなければ単なる印象に過ぎません。

そして印象というのは個々それぞれです。ごく曖昧なものです。だから「陛下が民主的なことをおっしゃって安倍首相の独走にお灸をすえた」的な印象は、その印象を持った人の主観という域を一歩も踏み出せないのです。なぜなら、検証が不可能なのですから。

その意味では「天皇陛下のおことば」の意味を探るのは、実は小学校の読書感想文と同じなのだということです。「感想」であって「批評」でも「思想」でもないのです。ましてや「事実」では、あり得ない。

ではどうすればいいか。簡単な話で、「おことば」は「おことば」として(文芸作品を読むようなもので)各個人それぞれがそれぞれの精神状態で受け止めればいい。でも、それを周囲に強要してはならないし、あまりに重大に受け止め過ぎてもいけない。それはたかだか「おことば」なのです。「何を」言ったかではなく「いつ、どこで、誰が」言ったかが重視されるものなのです。いやむしろ意味はそこにのみある、と断言してもいい。ジョン・ケージの有名な曲「4分33秒」と同じです。デュシャンの「泉」と同じです。そこに意味なぞない、その空虚から何を誤読するかが実は豊饒さの源泉です。同様に「おことば」は「おことば」が発せられた、天皇陛下がいまここで、おことばを語られたということ「だけ」が重要であり、「何を」はどうでも良いと断言してもいいくらいです。

そんな「おことば」を錦の御旗に立てたがる愚劣。それは言い換えれば「天皇陛下はすばらしい=天皇ヒーロー化」つまり「怪獣が暴れているけどウルトラマンが助けてくれるから大丈夫さ」的他力本願、実に楽観的な仮託でしかない、と僕は考えています。

実はそれは安倍首相に対し支持者が感じている、かつ首相自らが演出している「強さ」と同じです。「この人についていけば間違いは無い」という他力本願、英雄待望論なのです。そしてその英雄が語る大きな物語に人々がうっとりする時、おそらく民主主義とか自由とかというものは崩壊して行くのでしょう。それとも崩壊するからこそ人々が英雄の歌に聞き惚れるのかしらん。

サヨク的な方々が天皇陛下をもち上げる度に、僕は彼らのメンタリティに対する信頼を失っていきました。だからといってウヨクにもなれないので、たぶん現在は穏健な保守主義というあたりに向っているのかな、という気がします。チェスタトン万歳。

ぐだぐだ長くなりました。繰り返しになりますが、簡単に言えば「陛下を民主主義のヒーローに祭り上げようとする心性は僕には納得できない」ということです。それを説明するだけでこんなに文章量が必要なのです。いや必要だと考えている人間なのです、僕は。だから「ワンフレーズで何がわかるか」と言いたくなるのです。

 

都知事選と天皇陛下ご譲位について

今日はなんだかいろいろニュースが多い。

東京都知事選に鳥越氏と小池氏と増田氏が出馬する事がほぼ確定した。他はほぼ賑やかしだろうから、来る都知事選はこの3人を核に争われることになる。
・鳥越/民進党ほか野党
・小池/独立系自民党関連
・増田/自民党
こうしてみると小池百合子氏がいちばんまともに見えるという、非常に情けない状況である。
何より、民進党は何を血迷って、鳥越氏なぞ選んだのか(だったら古賀氏がいいのかと言われても困るが)。出馬会見の時に「とにかく自民を阻止する」しか言えないレベルの人が知事をめざしてどうするのか。しかも改憲阻止は国政の話だ。
どうせだったら「オリンピック中止」「イシハラ〜イノセ〜マスゾエ時代の官僚と議員の闇を暴く」「築地移転中止」くらい派手なことを打ち上げたら、少しは違っただろう。そんなことを言い出したらもちろん当選しない。でもそのくらいのポピュリズム手法は使ってほしい。本気なのであれば。
それと、副知事として宇都宮と橋下を指名するとか、いやもっと盛大に、小池氏に副知事を依頼すると公約するとか、そのくらいの小技は出していただきたい。何だったらいま話題の都議会自民党幹事長の某氏を副知事抜擢してはどうか。
まあそれは冗談だが、会見で政策のひとつも出せないというのは、
・本人が不勉強かつ怠け者
・担いだ側が何も考えていなかったので、政策が出せない
どっちかなのだろうが、どっちも情けないなあ。
じゃあ増田氏はいいのか、小池氏はいいのかという話になるけれども、まあどちらもダメでしょう。
僕は都民ではないのでなんだって構わないけれども、こうしてみると橋下というのは、敵ながらあっぱれというか、最低限のことはきちんとやっていたんだなと分かる。政策もちゃんとあったし、でっかいアドバルーンも上げたし、口がうまかった。失礼ながら今回の都知事候補者の誰よりも、現代日本の政治家としては、まともである。じゃあ彼でいいのかと言えばいやそりゃダメなんですが。

天皇陛下が譲位の意向とNHKが報じた。宮内庁はこれを否定しているが、何も無い所に煙は立たないので、もしかしたら宮内庁高官が観測気球を上げたのかも知れない。
その場合、
1:陛下自ら(ご自分の体調など考慮して)譲位を考えておられる
2:最近、サヨクからも評価され始めており、何かと言うと「陛下に比べてアベは何だ」的なことを言われるので、この際引き摺り下ろしてしまおうと政府内で画策した
このどちらなかんじゃないかな、と思う。外れていても気にしませんけどね。
ところで昭和天皇は神から人になった方で、だから「象徴天皇」というのはそれをただ受け入れざるを得なかったのだと思う。外から押し付けられたポジションなのだ。
それに対して今上天皇は、天皇になられた時点ですでに「象徴」である。学者タイプなので、おそらく「象徴としての天皇とは何か」を、必死で考えられたと思う。その結果が、昨今の「災害にすぐに対応する天皇」「民主主義の守り手としての天皇」という言動にあらわれているのではないかしら。
おそらく、次の天皇は、象徴の意味をそこまで突き詰めないだろう。すでに今上天皇がスタイルを作ってしまっているので、それをなぞり発展させればいい(これは皇太子が怠惰だということではない。伝統というのは往々にしてそういうものなのだ)。今上天皇は、お手本とするべきは昭和天皇しか無く、しかし昭和天皇はもともと神から下りて来られたので自分とはアプローチが違うと感じられていたと思う。近年の陛下の言動が、政治的にお膳立てされたものでしかないのであればともかく、陛下ご自身のご意向がかなり出ているのであれば、僕の推論は(妄想かな)そう間違っていないのではないか。
そういう意味では天皇制は実は曲がり角を曲がっていたのだすでに。次の角は、おそらく女系天皇問題だろう。僕はもう憲法を改正して天皇家を呪縛から解き放ってさしあげるべきだと思っているのだが、さてどうなることか。

僕は右翼ではないのだが、こうして天皇制について考える程、実は天皇家は日本の中核ではないかという気がして来る。ただしそれは元首だ国体だという政治体制の中の位置づけではない。戦後、いやもしかしたら明治維新以後、日本の政治制度は常に、中心に大きな空虚を作って来たのだと思う(と誰かが言っていた、うろ覚えですんません)。空虚の存在を前提とし、その周囲に統治システムを作り上げていった。通常、中心のない統治システムはあり得ないのだが、日本ではそれがまかり通っている。そしてそれが「最終的に責任をとる存在の不在」ということになっていると思う。(思う、というのは、もちろんきちんと考えていないからです。ごめん)
一億総無責任だ何だと言われるのは、実は東京裁判やアメリカの占領政策だけではなく、それ以前からニッポン無責任野郎システムが出来上がっていたのではないか。大日本帝国憲法でも、天皇陛下が中核にいるようで実はオミットされているのではないか。これは条文ではなく成り立ちからの類推だ。憲法が作られたのは、決して陛下のためではない。対外的・対内的な政治的必要性からである。憲法を制定しなければ天皇陛下の政治的安定が図れない、ということではなかった。むしろ当時の権力者たちが、自分たちの権力安定のために必要としたのが、明治憲法だったのではないか、とこれはまあ根拠も無い妄想だけれども。
ここに、「国家の中核としての天皇(仮身としての権力)」と「天皇を支える重臣(権力の実質)」という二重構造が生まれ、「いざとなったらすべて陛下に押し付けて自分たちは口拭いができるシステム」が完成したのだ。これがいかに完全に機能したかは、第二次世界大戦の敗戦後を見れば分かる。東京裁判などというものが無ければ、彼ら権力者はほぼ無傷だったのではないか(そして東京裁判などというものが実行されるとは、さすがに見当もつかなかったに違いない。何しろ前例がないので)。

新しい日本国憲法でも、二重構造は受け継がれた。象徴天皇である。日本国憲法の最大の問題は、僕はこの象徴天皇という、言ってみれば「統治システムの欺瞞」なのではないかと考えている。根本の所で、為政者が腰が引けてしまっているのだから、始末に負えない。これに比べれば9条の問題なぞ、大した事では無い。ここをきちんと解消しようとしないサヨクは、知的退嬰ではないのかとさえ思う。

遡れば、摂関政治以降の日本においては、常に二重構造の統治システムが続いていた。天皇=皇帝に権力が集中していない国家というのは、もちろんある統治システムが成熟することでしばしば出現する。例:英国、フランスのルイ王朝(14世から16世へ)、ソヴィエト指導部、などなど。だが、1000年以上そのまま続いて来たのは日本くらいなものだろう。しかもその間に実際の権力者は何人も代わっているのだ。

まあ、当時の天皇に権力が無かったかどうかは、実は分からない。征夷大将軍武家に対するものだから、武家側が天皇家や貴族側に支配を強要しはじめるのは、案外最近で、徳川時代になってからである。このあたり、少年時代にさんざん苦労した徳川家康の精神性がはっきり現れている気がする。おそらく彼は、権威を絶対視しなかっただろう。だからこそ、旧支配者たちを完全に押さえ込めたのだと思う。

ではあっても、二重構造が続いていたことはたぶん間違いが無い。鎌倉幕府が開かれても、当時はまだ天皇・貴族側も決して衰えてはおらず、ある種の緊張感が持続していた。

ここまで書いて勘違いに気づいた。違うじゃん。室町までは、「仮身としての権力」と「実際の権力」は、曲がりなりにも分離し切ってはいなかったじゃん。江戸時代でも天皇家が腹を決めて突っ張ったこともある。だから、たぶんこうなのだ。
1:古代〜平安中期:イメージとしての権力者と実際の権力者がほぼ一致
2:平安中期〜室町末期:権力が二重化するが、それは重なり合っているのではなく二つに分離している
3:江戸時代:イメージと実質の二重化が進む
4:明治維新〜敗戦後:完成
こんなプロセスだったのではないか。ってこれをきちんと調べるのは手に余るな絶対。

となれば、日本の政治的課題は、
天皇制の解決(存続にせよ廃止にせよ、二重構造はやめる)
・統治システムのシンプル化(一元化)
おそらくこの2つが不可欠で、そうでなくてはいつまでたっても日本は国家としては成熟できないままだろう。
だがこれを成し遂げるためには当然憲法改正が必要であり、その場合は国家の制度設計自体をすべてやり直すわけだから、かなりの時間が必要になるだろう。そこを覚悟してやれるか、それとも別の何かの道をたどるのかは、今は僕にはまったく分からない。

思い出せない

昨日の事が思い出せないので困る。何をやったっけ?

土曜日である。取材はない。午前中に何かやったかしらん。

夜は、9時過ぎくらいにLynch。ミーマイモー(mmm)のライブを聴きに。人が多くてうんざりするが、前から楽しみにしていたので、がんばって聴く事にした。
10時30分からと12時30分からの2セットという時刻設定は年寄りにはしんどい。せめて9時、11時くらいにして欲しいが、Lynchはそういう文化なので僕が苦情をいうところではない。合わなければ行かない、行きたければ我慢する。
mmmは良かった、客もきちんと聞く人が多くて良かった。ささやくような歌が多いので、きちんと聴いてもらえないと何も伝わらないのだ。帰りがけにCDを買い、交換に僕のCDを進呈する。たぶん聴いてもらえないか、聴いてもそれで終わりだろうけれど。なんせ売れないからまあ良い。

後は何だ? 書店には行った気がする。『「ウルトラQ」の誕生』と『おかしな男』を買ったのは金曜日じゃなかったかな。すると昨日は何も買っていないかな。なにひとつ思い出せない。

この状態だからきっと仕事はしていない。すれば記憶にのこる。

そうだ、DVDドライブを買いにいった。たぶん、午後だと思うが、それもよく分からんな。お昼から午後にかけてかなあ? 駅東の、コジマじゃない方だ。名前が出ない。考えても出ないので飛ばす。面倒くさい。

海外DVDを観るためにはリージョンを変えなくてはならないが、Macではいいフリーソフトがない。探したけれどもない、ネットではできると書いてあるけれどもできない、有料ソフトでも見つからない。どうしてドライブをリージョンフリーにしておかないのだろう。馬鹿じゃないのかパソコン会社は。とにかく、リージョン1で固定するドライブを買いにいった。そうそう、ブルーレイドライブにするかしばらく迷ったが、「マックで使えます」と書いてあるドライブは馬鹿高いのばかりだったので、やめた。店の名前がまだ出ない。なんだっけ。サトーカメラではない。当たり前か。

ということは、午前中はしばらくDVDリージョン外しソフトを探して、ウェブをあちこち見て歩いていたわけだ。時間感覚がないので、何をやっていたか何だかわからないのはそのためか。

夜、ひどく胸焼けがしていたのも思い出した。たぶん食べ過ぎだが、たぶんパンを食べたのだが、どこで何を買ったのだろう。これは思い出した。「太陽の王子ホルスの大冒険」の悪役みたいな名前のパン屋で、何だかいろいろ買ったのだ。

で、昨日は『「ウルトラQ」』を読み終わらせたことは間違いないので、それを買ったのは一昨日であるな。そして昨日読了。でDVDを観たくなり、でもアメリカ輸入品だったからDVDドライブを買いに行ったということだ。

で、どの店で買ったんだっけ?

なんかもうぼうっとしてなんだかよく思い出せない。

一昨日は、切れて手近な資料を部屋の隅に投げてぶつけて叩き付けたことは覚えている。なんだかすごく腹を立てて、手当たり次第ものに当たっていた。『「野党」論』を読んでいる最中に、政治関連の本のすべてにものすごい嫌悪感を感じて、リザインしたのだ。しばらく政治だの社会だのという本は読みたくない。仕事で必要な分だけにする。

本に触りたくもない気分。

気分も何もぼうっとしているので、なんだかわからん。わからんまま今日はさっき投票に行った。なんかよく分からん。

『安保論争』は出だしから安保反対側に敵意を見せているのが下品で、それきり読む気をなくした。別に賛成でも反対でもいいけれど、いまこの時点で安保を賛成反対云々騒いだ所で国が変わるわけではないと見越した上での、上から目線じゃないのか。

政治関連は、どれも何だかもう知性も論理も感じられないし、簡単な事を難しくいっているだけじゃないのかと思うけれども、思うだけで、頭が何しろ壊れているので、なんかもうよく分からん。

ライター以外の、あんまり記憶力がいらず整理整頓能力がいらない生き延びる方法を探さなくちゃ。

あと『ゴードン・ピム』は『ハック・フィン』ではない。同じ南部出身で同じ「ホラ話」ベースの作家だからといって、文体まで似せてはいけない。しかも似せきれず、「である」系のしかつめらしい文体と「じゃないか」系の呼び掛ける文体が混在している。もちろん、前者的な文体が正しいのである。内容からすれば。あれは「冒険物語」ではなく「難破漂流記録」であり、「世界を体験し生きる記録」ではなく(たとえさまざまな体験が書いてあっても基本的には「世界を観察した記録」なのだから。そういう物語の核を忘れて翻訳すると、ただただ「いまっぽい」珍妙な無理矢理な訳文になっていく。今回のはそういう訳文だ。とどこまでもあれを敵視し続ける。松沢呉一を笑えない。

ほぼ思いついたまま指先だけで書いているのでなんだか自分でもよくわからんが、何しろ考える事がほぼできない状況なのでしかたがないし、まあ日記だからなあ。いいんじゃないかなあ。ヨドバシカメラじゃないしなあ。だめだね。思い出さないからこれでおしまい。

at random

日記をきちんと書く気力が出ないので、雑感をアトランダムに。

選挙もいよいよあと2日後に迫ったが、いったい誰に、どの政党に、どんなビジョンで投票したものか皆目見当がつかぬ。盛り下がるばかりの心理が現実世界に投影されたのか、選挙カーもほとんど出会わぬ。静かでいいけれど、いよいよ盛り下がる。

『シンゴジラ』公開が近い。迷っているが、観るんじゃないかとは思う。思うけれども、なにしろエヴァの監督なので、出来上がりの見当がつかない。アニメは好きではないしエヴァのエの字も知らぬ。ある程度「知っている」と言える(つまり観ている)監督は宮崎駿押井守くらいだが、現在はどちらにも全く興味が持てない。宮崎氏は変な疑似自然信仰が作品をどんどん腐らせた。「疑似」というのは商売としての自然派ということで、そうでないと戦闘機や戦車といった兵器好きと両立しない。押井氏はもっと単純に肌が合わない。劇場版『パトレイバー1』からして、合わなかった。『ビューティフルドリーマー』はほぼ覚えていないがネガティヴな感覚はないので、あれは大丈夫だったんだろう。頭でっかちの演劇少年のような作風は、思春期にはいいけれども、この年になってまで観るもんではない。

それにしても東宝はいつまでゴジラをしゃぶっているつもりだろう。別段やめろとは思わないし、無理にSF映画なぞ作っても失敗するのは目に見えているので、せめて別の、これまでにない怪獣映画くらいは作ってくれてもいいんじゃないか。
怪獣映画と言えば、デル・トロ『パシフィック・リム』は、まさに東宝怪獣映画と日本ロボットアニメのエッセンスを凝縮させたような作品だったが、あれが良いのはその「エッセンス」の絞り方が上手かったからであり、決して何か新しいものがあったからではない。物語としては最初の『キングコング』や、B級と揶揄されている『タランチュラの逆襲』『死のオオカマキリ』に完全に負けていると思っている。その点は『クローバーフィールド』はよくできていたが、少々気持ち悪い。『ミスト』(スティーヴン・キング原作の奴)も、ダラボンの悪い性格というか、最後が非常に後味が悪く、2度観ようと言う気持ちが失せる。
いやそんなことはどうでもいいけれども、いいかげん「特撮」(吊り操演、ぬいぐるみその他)に頼らず、新時代の怪獣映画を作ってほしいと思うのですよ東宝には。無理だろうけれど、期待くらいは、少ししてみたい。

先日、甲斐君たちとセッションさせてもらって、それはすごく気持ちがよかったのだけれども、同時に僕は演奏者ではないなあと改めて思った。一切の下ごしらえ(音色作り込み、シーケンサーなど)を拒否している人間がそんなことを思うのはヘンだけれども、そしてそれは技術がある無しではないけれども、いわゆる演奏という行為に魅力を感じていない。それが再確認できた。

巽孝之氏のプログレ論の本がどこにいったか見つからない。最近増補版が出ているのだが、買おうかどうしようか。たぶん、また腹を立てるだけだろうなあ。たぶんかれがまだプログレに愛情を持っていて、僕はもう哀悼の花を捧げてしまっているという違いなのだろう。ということを確認するにはやはり読むしかないか。

気がついたのだが、最近ほとんど「楽しみだけのための読書」をしていない。本を読む事自体が大きな楽しみなので、まあ問題はないのだけれども、資料としてとか参考のためにとか、いろんなエクスキューズのつく読書ばかりだ。これはたぶん、小説が読めなくなって来ているからだろう。今日など怪盗ニックさえ買わなかった自分がいて、ちょっとびっくりした。ホックがダメだったらもうほとんどダメだぞ。

海外ポップスをネタにした実験的なバンドを考えているのだが、女性ボーカルがいないだろうなあ。

本日はここまで。