今回の東京都知事選について感じることなど若干を
何度か書いているけれども、昔、栃木県には「栃木新聞」というのがあり、現存する「下野新聞」と2紙が競い合っていた。栃木新聞は1994年に経営難から休刊になるが、労組が継続を主張し、その後しばらく本社内にたてこもってタブロイド版の新聞を発行していた。
そのたてこもり時期に、労組に取材したことがある。結果として記事になる事はなかったが、それは編集部の考えというより、記者になりたてだった僕にはまとめきれなかったからだった。
取材している最中に、うしろでアジびらか何かの打ち合わせが行われていた。その時に、1人が「それは事実と違う」と言うと、もう1人が「これは報道では無いから、誇張しても何でも、読み手にインパクトを与えればいいのだ」という意味の返事をしていたことが、今でも自分にとって解決のつかない問題として、記憶に残っている。
組合活動というのは、それがジャーナリストであっても、事実へのこだわりを捨てなくてはいけないものなのか。事実を報道する「新聞」を存続させるために、アジびらとは言え、事実を無視した文書を作成して公表していいのか。
そんな疑問は、多分僕が根本的にそういった集団行動に向いていない、ということが、あるのだと思う。そもそも彼らはジャーナリスト(記者)として運動していない。労働者として運動していたのだ。労働運動だったのだ。
「書かなかった」というのはもちろん自分の力が無くて書けなかったのだけれど、自分自身のシンパシーがその時に失われてしまったからかも知れない。アマチャンと言われればそれまでだが、未だにその甘い部分を捨て切れていない。
いま、反核運動や反安保闘争など、さまざまな市民運動があるが、そういったものがただ「運動」だけにこだわっているふうであることが、僕は好きではない。主張それぞれには納得できるところもある。彼らが正しい部分も多い。
問題は自分たちにとって都合の良い言説や活動を無批判に受け入れ、少しでもそこからズレると強烈に反発する様子がうかがえることだ。それは、反核「運動」であり反安保「闘争」である。活動に主語があるから、そうなる。反核や反安保の意味を突き詰めず、ただ冠としていただいているから、そうなる。そんなふうに僕は考えている。
それは、一種の全体主義だ。先の「アジだからウソを書いてもいいのだ」も、全体主義だ。活動が目的化すること自体は全体主義ではないけれども、それをもって異論を踏みつぶそうとすることは、プリミティヴな全体主義なのだ。と、これは個人的な感覚だけで言っているのだが、そして「全体主義」という用語が正しいかどうか考えなくてはいけないのだが、それでも何か禍々しく危険なものであると僕は直感している。
今回の都知事選の詳細はこれからでるのだろう。だが現時点では(8月1日午前)状況は決して良くない。自民党はメンツのために小池百合子を処分しようとしている。民進党はすでに内部分裂の兆候がある。宇都宮氏は市民運動から圧力があったと非難している。どれもこれも、腐乱した悪臭を放っている。勝った方も負けた方も。久しぶりに「政治業者」たちばかりが全面に出た、醜い選挙だったという気がする。もちろんそこには小賢しいマスコミも含まれている。
そうした動きもまた、それが「運動」でしかないからだと思う。あらゆる言葉は浮ついていたし、ただ空虚な記号でしかなかった。それは桜井誠の選挙演説を見れば分かる。彼の公約は、ほぼ正しいような表情を持っている。だがそれは彼のこれまでの行動とまったく合っていない。本人は合っているつもりだろうが、唾を飛ばし怒号し腕を振り回して在日外国人をひたすら攻撃し誹謗してきた彼と、あの公約は、決して整合性がとれない。彼はただ運動のために、自らの精神性を捨てたのだ。
それは鳥越氏も同様で、何しろ公約を準備せずに選挙戦に臨んだ前代未聞の候補なのだ。始めから精神性の空虚さをさらけ出していたのだ。これほどみごとな「政治」へのアンチテーゼはあるまい。「語るべき言葉を持たないジャーナリストは、ジャーナリストなのか?」と僕は疑問を持つ。「ジャーナリストがアジびらでウソをついていいのか」と同じ平面状にそれはあるし、「政治家が政治言説を自らの精神性と合一させずに展開していいのか」という今回の主だった都知事選候補者および出損なった人(石田氏宇都宮氏も含まれる)への疑問とも、また同一なのだ。
いずれにせよ、これはもう正常な意味での選挙とは思えない。とどめは、投票時間が終わると同時にNHKが小池氏に当確を出した事だ。報道機関が「出口調査」というあくまで自分の組織内の情報のみを重んじ、実際の投票数を無視する。それが正しい事なのか? 統計学がどうの、取材力がどうのという話では無い。選挙は投票で決まるのだから、その結果が一義的に尊重されるべきである。投票の実質を無視し、他からは検証のしようがない出口調査なる自己都合だけで「当確」を打つ、その姿勢はもはや報道機関ではない。今回はNHKが目立ったが、他の報道機関も同じ病にある事は通常の選挙報道で明確だろう。そして池上某氏が、それをバラエティに変えてしまうのだ。この状況はどう考えても正常では無いが、選挙そのものが正常ではないのだから、むべなるかな、だろう。
1954ゴジラから現在まで、ゴジラは何体いるのか?
ゴジラの個体数について調べました。最新作『シン・ゴジラ』はネタバレになるので抜いてあります。(修正しました)
『ゴジラ』海中で死亡
『ゴジラの逆襲』氷に閉じ込められる
『キングコング対ゴジラ』氷山から脱出→海に落ちて浮かばず
『モスラ対ゴジラ』モスラの糸でぐるぐる巻きにされて海に落ちる
『三大怪獣地球最大の決戦』富士山近くで去っていくモスラを見送って終わり
『怪獣大戦争』キングギドラ、ラドンと三つどもえで海に落ちる
『南海の大決闘』海の彼方へ泳ぎ去る
『ゴジラの息子』ゴジラとミニラが冬眠して終わり
『怪獣総進撃』怪獣ランドでゴジラ、ミニラともに生存
『オール怪獣大進撃』夢オチなので除外
『ゴジラ対ヘドラ』地の果てへ歩み去る(ミニラ無し)
『ゴジラ対ガイガン』海に去る(ミニラ無し)
『ゴジラ対メガロ』海に去る(ミニラ無し)
『ゴジラ対メカゴジラ』海に去る(ミニラ無し)
『メカゴジラの逆襲』海に去る(ミニラ無し)
-----ここまでの集計。
成体2体、幼体1体
ここで設定リセット。いわゆる平成ゴジラシリーズ。
『ゴジラ』三原山火口に転落
『ゴジラVSビオランテ』火口から復活→抗核バクテリアを打ち込まれ弱りつつ海に去る
『ゴジラVSキングギドラ』未来人の策略で過去に戻って消去→別の核物質により新たなゴジラ誕生→メカキングギドラと共に海中へ
『ゴジラVSモスラ』海中で復活→バトラとともに海中へ
『ゴジラVSメカゴジラ』ベビーゴジラ誕生→ゴジラとベビーゴジラ海へ去る
『ゴジラVSスペースゴジラ』ベビーゴジラがリトルゴジラに成長→リトルゴジラがスペースゴジラに捕まってどこかへ→ゴジラがスペースゴジラを倒して海へ→リトルゴジラ戻る
『ゴジラVSデストロイア』リトルゴジラがジュニアに成長→ジュニア、デストロイアに倒される→ゴジラ内部の核暴走でメルトダウン→ジュニアがゴジラとして復活(多分)
------ここまでの集計。
成体1体、幼体1体(ただしベビーとリトルとジュニアをそれぞれ別とカウントすれば3体)。
エメリッヒ版『GODZILLA』成体はミサイルで死亡、ベビーゴジラは無数に生まれ1体のみ生き延びる
-----ここまでの集計。
成体1体、幼体数えきれず。
以下、1作ごとに設定リセット(原則として、すべて1954版の続編という位置づけ)
『ゴジラ2000』東京で大暴れしているシーンで終了
『ゴジラXメガギラス G消滅作戦』ディメンションタイド(マイクロブラックホール)に吸い込まれるが、最後に生存が示唆され、クレジット後に足音と鳴き声
『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』海中でミサイルを撃ち込まれ、爆発。ただし最後に残った心臓の鼓動
『ゴジラXメカゴジラ』海に去る
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』上記続編のため、これに限り同じ個体と考える。モスラに糸でぐるぐる巻きにされ、メカゴジラと共に海中に消える(クレジット後に、研究室内の1954ゴジラDNAが映される)
『ゴジラFINAL WARS』ゴジラとミニラ、海に去る
-----ここまでの集計。
成体5体、幼体1体
エドワーズ版『GODZILLA』海に去る。
-----ここまでの集計。
成体1体
■無理矢理合計すると、
成体 10体
幼体 カウント方法によりさまざまだが、ストーリーのつながりから判断すると、
日本版のみ 幼体 3体
ハリウッド版 数えきれず、ただし成体へ成長可能なのは1体
以上でした。
坑内カナリア理論
物語を読まないためには?
まだ何もかたまってはいないのだけれど、ここ数年ずっと「物語は必要か?」ということが頭にある。読み物ではなく、社会における物語だ。
物語というのは「不条理や怪異、謎などを説明するストーリー」だ。世の中はよく分からないことだらけだ。「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」といった哲学的な問いもあるし「なぜ自衛隊は必要なのか(もしくは不要なのか)」というポリティカルな問いもある。「どうしておなかがへるのかな」も、立派な「問い」だ。それらは簡単に説明がつくものもあるが、つかないものもある。つかないものが自分の人生や仕事に大きく影響するものである場合、僕たちはその解明を必要とする。だが解明できなければ、そこに物語の需要が出て来る。
だから「物語」は「よくわからんものをわかるような気分にさせるもの」でもある。それが真か偽かは、実は問題ではない。説明がつけばいいのだ。陰謀論などは、まさにそれだ。宗教も同様だ。信じている人間にとって真実であればいいのだ。
極論を言えば、この世界の秩序はすべて「物語」だろう。だが、それは必要なのか。それとも、実は無くてもいいものなのか。
「人間は弱いものだから、物語は必要だ」と言われる。本当に弱いのだろうか? この「必要だ」も、実は物語だろう。物語で物語を説明しているだけではないのか。
とはいえ、現状では僕は(もしかしたら誰もが)物語から自由になることはできない。少なくとも僕は無数の物語に囲まれ、重層的な物語世界でなくては生きていけないと思う。だが、それをいつまでも続けていていいのだろうか? いいかげん、僕は物語を捨てる努力をするべきではないのか。
そう考えはするものの、おそらくその大変な困難と、困難の末に手に入る荒涼とした世界とを想像し、怖じ気づいてしまう。それもまた物語かも知れないけれど。
もちろん、物語によって僕たちは平穏を手に入れることもできる。映画『マトリックス』と同じだ。与えられた物語の中で生きていれば平和だし楽だ。だがそれは何かを解決するのだろうか? それともただ誤摩化して先送りしているだけだろうか?
最近考えているのは「物語がなくては生きられないけれども、その中で可能な限り物語を排除するしかないのではないか」ということだ。その「物語に抗う」こと、絶対に勝てない「物語」に絶望的にならず永遠の戦いを挑む事。それだけの精神の強さが必要なのではないかということだ。
いま、世界にはさまざまな問題がある。国内には憲法改正や社会保障(年金)、経済その他が山積している。世界的にもEUの問題、ISの問題、貧困、暴力、差別....さまざまな問題があり、そしてそれらを説明する物語があふれ、かつそれらの物語から新たな問題が生じている。そんなふうに僕には思えて仕方が無い。それもまたひとつの物語、「物語があるという物語」でしかないのかも知れないけれども、それを確かめる方法はひいとつしかない。拒否できないものを拒否する事。否定できないものを否定する事。世界を解釈せずに見つめる努力をすること。それが、もしかしたら、世界の問題を解決する糸口になるのではないか、少なくとも僕にとっては必要ではないのか。
まるでまとまっていないし矛盾だらけだし、何よりほぼ高校生のような考え方なのだが、そういうことを時々真剣に考えてしまうのだ。