活動弁士と説明台本

しつこく続きます。

田中純一郎『日本映画発達史』をせっかくの機会なので通読しておこうと思って読み始めたら、第1巻でおもしろい記述に出会った。

第三章第11節に活動弁士、いわゆる「カツベン」についての記述があって、彼らがいかにデタラメだったかということを力説している。そこに、

「(前略)外国映画興行の場合には、外国語タイトルを判読し得ない多くの見物のために、彼らの任務が重要な役割を持っていたことは争われない。(中略)そうかといって、彼らに外国語を自由に翻読する素養があったかというと、そうでもない。輸入業者が製作する説明台本によって適宜話術を弄するのであるが(以下略)」

とあった。

この説明台本だが、どうやら外国映画だけではなく日本映画にもあったものらしい。ただ、日本映画の多くは舞台の映画化などだったため、ポピュラーな筋立てであれば弁士もかなり台本から逸脱して話していたようだ。一方外国映画は話に馴染みがないので、台本に比較的忠実に話していたようである。もっとも中にはそこに勝手に台詞を付け加え、さらにアクションものの場合は台詞回しもエスカレートさせたりしていたようだ。

ここで何が言いたいかというと、つまり「説明台本」は映画の輸入会社が作っており、田口桜村は輸入会社に深いつながりがあったのだから、それを手に入れてノヴェライズしたのではないか、と推測したのである。もしかしたら台本作成を仕事にしていたかも知れない。

当時の輸入映画は、字幕はどうなっていたのだろうか。翻訳したものに差し替えていたのだろうか。そうだとすれば、翻訳者がいたことになる。桜村が翻訳者だったか、そうでなくとも彼に近い人間であった可能性は低くないだろう。であれば、説明台本や字幕が資料として渡され、また輸入の際についてきた説明資料なども一式参照することで、あとは一度全編を見ておけば、ノヴェライズも可能だったと思う。

現代のようにビデオ完備の時代ではない。映画を観るためには、フィルムを映写機にかけ、部屋を暗くして、銀幕に映さなくてはならない。手軽に何度も見返すことは、まず不可能だろう。だが説明台本を作るのであれば、フィルムを編集機で少しずつチェックしたり字幕だけ先に見て行ったりしつつ、効率的に作ることができたのではないか。

どうも「だろう」「ではないか」だらけになってしまって確たることが書けず忸怩たるものがあるけれども、桜村は多分、説明台本を使ってノヴェライズしたのだと思う。特に『鐵の爪』『笑の面』は英語ではノヴェライズも発売されていなかったようだから(未確認だが、現段階では無かったと考えられる)、いよいよそれしか方法がないことになる。当面、そういう理解でとどめておこう。

ところで『日本映画発達史』では弁士は日本だけというふうに書いてあるが、実のところ外国にもいたようだ。しかし長続きはせず、消えてしまった。一つには「字幕」のつくことがスタンダードになったことが挙げられるだろうが、もうひとつは映画の創り手(演出、俳優など)側が「映画独自の表現方法」を早くから追求していたことが、説明無しでも判りやすい映画になっていったのではないかと思われる。「舞台では無い、映画独自の表現」を追求することで、弁士の必要を無くして行ったのではないか。古いフィルムを観ていると、そういう気がする。もちろん舞台劇そのままのものも多い。エディソン社の『フランケンシュタイン』など、そのまんまである。また家庭喜劇の類いも、ひと部屋かふた部屋だけで終始しカメラもフィックスのみというものが見られる。だがおおむねすぐに、舞台劇では表現できないものに変わって行った。

日本の場合は、そういう冒険心に乏しかったのではないか。まあ技術的にまだまだ低く、撮影スタジオも無い状況では、ただひたすら撮影するのが精一杯で、編集の必要なども周知されていなかったようだ。

最近は弁士というと何かいいもののように言われているけれども、実際にはデタラメに話を作ったりして、映画制作側からすると決して喜ばしいものではなかったように、『日本映画発達史』にはある。しかし上手な弁士には俳優以上の人気があったので、会社も黙認するしかなかった。

ところで横溝正史『悪霊島』には、活動写真の弁士が出て来る。彼も一時期非常に人気が出たが、やがてトーキーの登場で没落した。同書を読んでいる時には「人気があった」がピンと来なかったが、会社を動かすほどの存在の弁士もいて、映画スター以上の人気を誇っていたということが『日本映画発達史』には書かれているので、ようやく『悪霊島』の弁士の姿が想像できた。キムタクなみにちやほやされていたのが、いきなりどん底へ落ちたようなものだっただろう。

いきなり話が戻るけれども、『鐵の爪』主演のパール・ホワイトPearl Whiteの伝記が出ているので、無理をしてでも英語の本を読みたくなってきた(多分、本当に「無理」なんだけれども)。だがその前に『American Cinema of the 1910's』という本をなぜかPDFで所有しているので(本当に、なぜだか覚えていないのである)、これに目を通してみようと思う。