アンビエントミュージック(1)

アンビエント・ミュージックとは。

コトバンクによれば、
環境音楽。作曲家や演奏者の意図を主張したり、聴くことを強制したりせず、その場に漂う空気のように存在し、それを耳にした人の気持ちを開放的にすることを目的にしている」

だが実際には「アンビエント」と称した瞬間に、意図が入り込む。聴き手に強制する。「これはアンビエントですよ」。

僕は常に間抜けだが、自覚的に間抜けな発言をすることもある。自分の演奏を聴こうとする人に「聴かないで!」とお願いする時がある。普通にしていてください、おしゃべりしても構いません、それがアンビエントです。
言うまでもなく、これは救い難いあほらしさだ。そう主張した瞬間に聴き手に強制するのだから。

だが、実際のところ、強制しない音楽があるだろうか? 音が鳴ったその瞬間から、音自体が自己主張し、聴き手の注意を引き付ける。
もちろん通常の演奏ほどではないにせよ、ゼロではない。程度の問題である。

作曲者や演奏者の「意図」などは、どんな音楽であっても、ほとんど問題にはならない。音楽は常に送り手を裏切る。聴き手は自在に受け止め、「意図」は全く意味を持たないか、せいぜい参考にしかならない。それは歌であろうとインストであろうと、民衆音楽であろうと西洋クラシックであろうと変わらない。

となれば、アンビエントミュージックとその他の音楽に実は差異などなく、ただ程度の差があるに過ぎない。ヘヴィロックもノイズミュージックもアヴァンギャルド音楽も実験音楽もガールズポップスも、何もかもが同じくただ音楽でしかない。

逆に言えば、アンビエントの名の下に何を行おうとも、それはアンビエントミュージックであると言える。

以上はもちろん暴論である。理屈にも何にもなっていない。だが作り手にとっては真理である。
その上で、であれば僕は、積極的に空間を作ることがアンビエントだと言おう。空間を埋める音楽ではなく、音楽が空間を再創造するのだと、それがアンビエントミュージックであると。

だから聴き手を積極的に邪魔しても良い。想いをかき乱しても良い。聴き手に異空間を提示することこそ、アンビエントミュージックの本質であると僕は勝手に定義する。

その意味で、最高のアンビエントミュージックは、例えばタンジェリン・ドリームのZeitであり、エリアーヌ・ラディーグのTrilogie de la mortであり、またトニー・コンラッドファウストのOutside The Dream Syndicateであり、まあそういった音楽である。イーノはイデオロギーとしては優れているが作品としては微妙なところだ。僕はあまり好きではないが池田亮二やメルツバウも含めてもいいだろう。

あらゆる定義から解放された上で、積極的に空間を創造する音楽というのが一つの定義だが、それだけであればほとんどの音楽が当てはまる。いやそうではないのだが、そう考える人もいるだろう。
だからさらなる定義が必要だ。その一つに調性や旋律の軽視を含めるべきだろう。決して無視ではないが、必要不可欠でもない。それは例えばポロックの、あのインクをぶちまけただけのような作品が、それでも見事なまでに絵画であるのと同様だ。いや、積極的に同じと言ってもいい。アンビエントミュージックとは、音楽における抽象絵画であり、action paintingなのだ。

もっともそれは僕が即興演奏を重視しているからかも知れない。だが例えaction paintingでなくとも、抽象絵画であることはアンビエントミュージックにとって重要な定義である。旋律や調性、時にはビートさえ無視し得る自由度が不可欠なのだ(だから強調しても良い)。

空間を創造し、聴き手をそこに溶け込ませる音楽。全ての約束事から可能な限り遠くに離れた音楽。まずはそれを、アンビエントミュージックの新たな定義としようではないか。