読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「おことば」はからっぽだ

以下、要するに「陛下を民主主義のヒーローに祭り上げようとする心性は僕には納得できない」ということを書きます。

自分でもさんざん「陛下が」「陛下が」と書いておいてナンですが。実は最近の陛下の言動とそれに対する人々のリアクションには、大いに違和感を感じていました。

最初は僕も「何だ天皇陛下がいちばん民主的ではないか」と浮かれていたのですが、ジャパニーズリベラルの方々やその応援団の方々が「さすが陛下」みたいな喜び方をしているのを見て、冷静になりました。

天皇陛下が何を考えてどう行動しているのかは、外からはまったく分かりません。そもそも本当に陛下の真情なのか、宮内庁や政府の創作文章なのかも、分かりません。例えばジャーナリストが直接取材をかける、単独インタビューをするなどという方法は、天皇陛下の言動に関する限り、不可能。つまり、そこに「おことば」があり、その「おことば」の回りでそれぞれが勝手にわーわーやっているに過ぎない。天皇陛下の全言動を検証し直し発言傾向を調べそこから「本当はこの人は何を言いたかったのか」を検証する人でも出てくれば別ですが、そうでなければ単なる印象に過ぎません。

そして印象というのは個々それぞれです。ごく曖昧なものです。だから「陛下が民主的なことをおっしゃって安倍首相の独走にお灸をすえた」的な印象は、その印象を持った人の主観という域を一歩も踏み出せないのです。なぜなら、検証が不可能なのですから。

その意味では「天皇陛下のおことば」の意味を探るのは、実は小学校の読書感想文と同じなのだということです。「感想」であって「批評」でも「思想」でもないのです。ましてや「事実」では、あり得ない。

ではどうすればいいか。簡単な話で、「おことば」は「おことば」として(文芸作品を読むようなもので)各個人それぞれがそれぞれの精神状態で受け止めればいい。でも、それを周囲に強要してはならないし、あまりに重大に受け止め過ぎてもいけない。それはたかだか「おことば」なのです。「何を」言ったかではなく「いつ、どこで、誰が」言ったかが重視されるものなのです。いやむしろ意味はそこにのみある、と断言してもいい。ジョン・ケージの有名な曲「4分33秒」と同じです。デュシャンの「泉」と同じです。そこに意味なぞない、その空虚から何を誤読するかが実は豊饒さの源泉です。同様に「おことば」は「おことば」が発せられた、天皇陛下がいまここで、おことばを語られたということ「だけ」が重要であり、「何を」はどうでも良いと断言してもいいくらいです。

そんな「おことば」を錦の御旗に立てたがる愚劣。それは言い換えれば「天皇陛下はすばらしい=天皇ヒーロー化」つまり「怪獣が暴れているけどウルトラマンが助けてくれるから大丈夫さ」的他力本願、実に楽観的な仮託でしかない、と僕は考えています。

実はそれは安倍首相に対し支持者が感じている、かつ首相自らが演出している「強さ」と同じです。「この人についていけば間違いは無い」という他力本願、英雄待望論なのです。そしてその英雄が語る大きな物語に人々がうっとりする時、おそらく民主主義とか自由とかというものは崩壊して行くのでしょう。それとも崩壊するからこそ人々が英雄の歌に聞き惚れるのかしらん。

サヨク的な方々が天皇陛下をもち上げる度に、僕は彼らのメンタリティに対する信頼を失っていきました。だからといってウヨクにもなれないので、たぶん現在は穏健な保守主義というあたりに向っているのかな、という気がします。チェスタトン万歳。

ぐだぐだ長くなりました。繰り返しになりますが、簡単に言えば「陛下を民主主義のヒーローに祭り上げようとする心性は僕には納得できない」ということです。それを説明するだけでこんなに文章量が必要なのです。いや必要だと考えている人間なのです、僕は。だから「ワンフレーズで何がわかるか」と言いたくなるのです。