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物語を読まないためには?

まだ何もかたまってはいないのだけれど、ここ数年ずっと「物語は必要か?」ということが頭にある。読み物ではなく、社会における物語だ。

物語というのは「不条理や怪異、謎などを説明するストーリー」だ。世の中はよく分からないことだらけだ。「人はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」といった哲学的な問いもあるし「なぜ自衛隊は必要なのか(もしくは不要なのか)」というポリティカルな問いもある。「どうしておなかがへるのかな」も、立派な「問い」だ。それらは簡単に説明がつくものもあるが、つかないものもある。つかないものが自分の人生や仕事に大きく影響するものである場合、僕たちはその解明を必要とする。だが解明できなければ、そこに物語の需要が出て来る。

だから「物語」は「よくわからんものをわかるような気分にさせるもの」でもある。それが真か偽かは、実は問題ではない。説明がつけばいいのだ。陰謀論などは、まさにそれだ。宗教も同様だ。信じている人間にとって真実であればいいのだ。

極論を言えば、この世界の秩序はすべて「物語」だろう。だが、それは必要なのか。それとも、実は無くてもいいものなのか。

「人間は弱いものだから、物語は必要だ」と言われる。本当に弱いのだろうか? この「必要だ」も、実は物語だろう。物語で物語を説明しているだけではないのか。

とはいえ、現状では僕は(もしかしたら誰もが)物語から自由になることはできない。少なくとも僕は無数の物語に囲まれ、重層的な物語世界でなくては生きていけないと思う。だが、それをいつまでも続けていていいのだろうか? いいかげん、僕は物語を捨てる努力をするべきではないのか。

そう考えはするものの、おそらくその大変な困難と、困難の末に手に入る荒涼とした世界とを想像し、怖じ気づいてしまう。それもまた物語かも知れないけれど。

もちろん、物語によって僕たちは平穏を手に入れることもできる。映画『マトリックス』と同じだ。与えられた物語の中で生きていれば平和だし楽だ。だがそれは何かを解決するのだろうか? それともただ誤摩化して先送りしているだけだろうか?

最近考えているのは「物語がなくては生きられないけれども、その中で可能な限り物語を排除するしかないのではないか」ということだ。その「物語に抗う」こと、絶対に勝てない「物語」に絶望的にならず永遠の戦いを挑む事。それだけの精神の強さが必要なのではないかということだ。

いま、世界にはさまざまな問題がある。国内には憲法改正社会保障(年金)、経済その他が山積している。世界的にもEUの問題、ISの問題、貧困、暴力、差別....さまざまな問題があり、そしてそれらを説明する物語があふれ、かつそれらの物語から新たな問題が生じている。そんなふうに僕には思えて仕方が無い。それもまたひとつの物語、「物語があるという物語」でしかないのかも知れないけれども、それを確かめる方法はひいとつしかない。拒否できないものを拒否する事。否定できないものを否定する事。世界を解釈せずに見つめる努力をすること。それが、もしかしたら、世界の問題を解決する糸口になるのではないか、少なくとも僕にとっては必要ではないのか。

まるでまとまっていないし矛盾だらけだし、何よりほぼ高校生のような考え方なのだが、そういうことを時々真剣に考えてしまうのだ。