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ゲームは苦手

雑記

生まれついての性格なのか、昔からゲームというのは好きではあるが上達しない。チェスもポーカーもパチンコもブリッジも、なべて等しく手は出したが、等しく上達しない。麻雀に至っては役を覚えることさえできず、リーチを覚えただけで無謀にも友だちと卓を囲み、ぼろ負けして数万円とられて(もう時効ね)それ以来PCゲームの麻雀さえほとんどやっていない。

囲碁将棋となると、手さえ出していないので、未だにルールがよく分からない。分からなくてもマンガは楽しめるし、川端康成の『名人』も好きな小説のひとつだったりする。このあたりは、僕が偉いのではなく書き手が偉いのである。

(ああ、なんか変だと思ったらリズムが小谷野敦が入っちゃってる。読んだばかりだからな。まあいいや、すぐに抜けるだろう)

ボードゲームテーブルゲームばかりではなく、例えばロールプレイングゲームやシュミレーションゲームなども、食いつきはするのだけれど、すぐに飽きる。一時期エロゲーもやってみたが、1本で飽きた。あれだったら素直にアダルトビデオを見るかポルノを読む方が、よほどいい。

ここで「手は出すけれどもすぐに飽きる」というところが味噌というか不幸の始まりで、興味はあるのだが上達する気持ちがない。いや多少はあるのだが、それより面倒臭さの方が先に立つ。なので、続かない。

考えてみればゲームだけではなく、たいていのことは「面倒臭さが先立つ」性格であるので、さっぱり続かない。幸いまだ生きているのは面倒ではないが、多分死ぬのはもっと面倒だろうから、どちらに転んでも当分の間は自分から死ぬようなことはないだろう。

面倒くさいといえば、僕はミステリを好むものであるのだが、実のところ犯人を当てようと思って読む事は、ほとんど無い。そもそも当たらないのだが、そんなことより話をおもしろく読んで作者の仕掛けに引っかかる方が楽しめるのである。うっちゃられて背負い投げをくらわされて、豪快に吹っ飛ばされれば吹っ飛ばされるほど、うれしいのである。こういう楽しみ方を、実は丸谷才一から学んだ。この1点だけでも丸谷は偉いと思っております。だいたい、丸谷の小説はどれもピンと来ないのだが、評論やエッセイや対談座談はおもしろい。そして彼の訳した『ボートの三人男』は僕のフェバリットなのだが、あれは彼の訳だからだろうと思っている。違うという人は、さっさとジェローム・K・ジェロームの翻訳をやって持って来なさい。片っ端から読んでやるから。

丸谷だから、ということではなく、ジョイスの『ユリシーズ』も読んだ。読んで、こいつはホラ話ではないのかと思った。もっともホラ話はアメリカ人の方が分かりやすい。英国小説はひねり過ぎて良くない。フラン・オブライエンの『第三の警官』もホラ話だと思うのだが、なにしろねじくれているので、さっぱり分からない。いや分かるんだけれどおもしろさが分からない。カフカの『城』などはやはりホラ話でかつ滑稽小説だと思うのだが、オブライエンは滑稽味がなく、もちろん本人は大いにあると思っているのだろうがたいして無いので、ただ単にねじくれている話にしかなっていない。そういうところが難である。

ということはどうでも良くて、なぜすぐゲームに飽きるかと言えば、まあ僕の性格がいちばん問題なのだが、もうひとつ多分同好の士を見つけられなかったからだと思う。ゲームなんてものは1人でやるものではない。仮に1人でやるにせよ、つまりPCゲームなどは基本的に1人でやるものなのだが、それでも同好の士がいれば「いやああそこで引っかかっちまって」「あれはわかんねーよなー」みたいな話ができることで、興味がつながるのである。攻略本なぞいくらあってもダメである。そういう「あれがさあ」「それでさあ」の会話がいいのである。こういうあたりに僕の弱さがあるので、つまり勉強ができなかったのも同様で、道連れが欲しいのである。いないから、すぐに放り出す。

その割に音楽だけはずっと続いているが、何にでも例外はある。

ほいでもって、囲碁の世界的名人とコンピュータのAIが、囲碁で対戦して、コンピューターが3勝して、人間がようやく一矢報いたというニュースが世間を騒がせているのだが、そりゃああなたAIは強いに決まっている。ゲームなぞというのは相手との戦いだから、弱みを見せない方が強い。AIに弱みはないから、勝つが当然負けた方が驚くと思っていたら本当に負けたので驚いているのだが、それでもトータルでAIの勝利は確定している。人間は崩れる事があるから負けるので、AIは「あっしまったあれ悪手だったな」とか「うーん、どうもヤバいな」とかと余計な感情や下手な想像力を持たないから、強いのである。人間はそれでよれるから、弱いのである。今回の対局がそうであったかどうかは分からないけれども、大抵はそうである。

ただ、困った事に人間の作るものであるから、多分AIもどこか欠陥があるだろう。今は強くても、いつかそれ以上に強い人もしくはAIが出て来るに違いない。そういう存在を人間が作っているうちは、特に驚く事も無い。AIがAIを生み、AI同士で自発的に競争するようになったら、その時こそ僕は恐ろしく思うだろう。

なんだか収拾がつかなくなって来た。何の話だったかな。

怖いと言えば、都合の悪いときにとぼけるAIというのも、怖い。『2001年宇宙の旅』が名画である理由のひとつは、HAL9000が都合の悪いことはトボけてごまかすことができるからだ。そういう設定のSFは、それまで無かったと思う。まあ『鉄腕アトム』にはあったか。でもあれはまたちょっと別で、本来真面目に設定を考えていたらあんなことはできないはずなのだ。ロボットは嘘をつかないことになっているのだから。あれは手塚治虫がストーリー優先で設定をねじ曲げているのである。

AIがトボけるとどうなるか、というのが『2001年』が描いたことである。ああなるわけだ。人間は「彼は嘘をつかない」と信じているから、さっさと殺される。神を信じて酷い目に合わされたヨブとか、独裁者を信じてすべてを喪った人民とか、みな同じである。でもここではHALの話だ。嘘つきAIは、狂ったAIよりよほどたちが悪い。まったく信用できないからだ。だからボーマン船長もAIを殺すしかなかった。狂ったAIであれば、直れば分かる。でも嘘つきAIは、直ったように見えてもそれが嘘かも知れない。「私は嘘つきではありません、と言う嘘つき」みたいなものである。

だからゲームで勝っているAIはべつだんふつうのAIで、予測の範疇に含まれるから、そんなものに恐れ入っても反発してもしかたがない。とぼける奴が出た時が、その時である。「えーと、どうでしたっけねえ」と言い始めたら、AIは世界を支配するだろう。その瞬間、人間の負けは確定したのである。自分よりヒエラルキーが高い何者かが君臨したのである。そう観念するしか、無いのである。

そういう意味では『宇宙戦艦ヤマト』に出て来たアナライザーも相当怖いのだが、あれもまあ設定無視した存在だからどうこう言っても仕方が無いですな。

ゲームが苦手という話から何万光年も遠く離れてしまった。ここまで読む人はそういないだろうが、すんませんと謝っておきます。